My late mother’s last moments

1.亡き母・・・

先日、母が亡くなり、先週、無事、葬儀を終えたところです。

今年の正月は母に会えておらず、昨年のクリスマス以来、1ヶ月以上ぶりに会話したのが最後になってしまいました。

会話といっても、母は、はっきり話せる状態でもなく、わずかな会話しかできませんでした。

元旦に救急搬送され、心不全とのことで、とりあえず2週間は入院が必要、との診断でした。

最初の1週間は誰も面会できず、1週間後も、面会に制限がありました。

1週間に1回だけ、登録した2名だけが面会できる、というものでした。

このため、近くに住む兄と姉を登録するしかなく、私は、病院に行っても会えない、という状況になっていました。

約3週間後、退院できることになりました。

しかし、今まで行っていた介護施設でクラスターが出たとのことで、施設には行けず、近くの施設に一時預かってもらうことになりました。そろそろ、施設に入ることができそうかな、と思っていた先月末、容体が悪化し、再び入院することになってしまいました。

今月初めの朝、兄から電話があり、母の容体が悪くなったとのことで、病院に来てくれ、との連絡があった、という連絡がありました。

面会も3名までできるようになったとのことで、とにかくすぐに、病院に向かいました。

実家とは離れたところに住んでいる私は、その病院まで車で1時間以上かかります。

実に39日ぶりの対面です。

母は、酸素マスクを付けた状態で、なんとか意識もあり、こちらの話したことはわかっているようでした。

ただ、息を吐く力が無くなっているため、はっきり話すことができない状態でした。

2.最後の会話

「お母ちゃん、来たよー」

「誰だかわかる?」

「痛いところない?」

話かけましたが、言っていることはわかるようでした。

看護師さんが、「みんな来てくれて良かったねー」と声をかけたところ、

私には、「幸せもんだ(幸せ者だ)」

と聞こえました。

周りには、「塩が、どうのこうの」みたいに聞こえたようでしたが、

この時、なんとなく、この言葉が母の最後の言葉のように思えて、私は言葉を発することができませんでした。

子供達が全員来ていることで、自分が危ない状態であることを少し感じとっていたのかもしれません。

血圧も脈拍も下がって、少し安定してきたみたいなので、今すぐどうの、というのはなさそう、とのことで、その日は一旦、家に戻ることにしました。

帰りに、「また来るからねー」「もう少し頑張ってなー」と声をかけてきましたが、ベッドから母が発した言葉はよく聞き取れなかったのですが、「またお願いしますー」と言ったように記憶しています。その時は、それが最後になるとは思っていませんでした。

入院するまでは、母は、月曜日から金曜日までデイケアで過ごし、土曜日朝に、実家に戻り、私たちと土日を過ごした後、日曜日にデイケアに送っていく、という生活をしていました。

それ以前、母が、なんとか自分で自分のことができていた間は、日曜日午後から月曜朝までは母が1人で、という時期がありました。

この日曜日の午後に、私たちが帰るときに、別れ間際に、「またお願いします」って言っていました。

母親なのに、子供に遠慮しているような言い方がちょっと寂しいことだなと感じていました。

最後の言葉もそれだったような気がして、なんとなく、「もっとやってやれることがあったんじゃないか」

「あの時、あー言えば良かった」「最後にちゃんとありがとうを言っておけば良かった」とか、色々と後悔もあります。

でも、「幸せもんだ」という言葉を最後に聞けたのは、ちょっとだけ救われた気がしています。

そして、その夜、寝床に入ったところに、兄から電話がありました。

「病院から来てくれ、って連絡があった」とのことでした。

再び、病院に向かいました。

その夜は、風がすごく、高速道路ではハンドルを取られるぐらいの強風でした。

少し落ち着こうと思って、普段は寄ったことのないサービスエリアでコーヒーを買いました。

すぐさま病院に向かい、到着したのは深夜0時を少し回ったところでした。

入り口で姉が待っていてくれて、「もう危ないの?」と聞いたら、

「危ないとかじゃなくて、もうダメだった」との話でした。

兄や姉が着いたときには、もう何も反応がなくて、心肺停止状態だったそうです。

病室に着くと、静かに母が眠っているようにしていました。

まだ身体は暖かかったのですが、心臓は止まっているとのことでした。

その後、先生が来て、「ご臨終です」との診断を受けました。

奇しくも、父の誕生日でした。

火葬前の声かけでは、やはり、言葉になりませんでした。

「お父ちゃんが首を長くして待ってるからね」「あかあちゃん、ありがとうね」

涙と鼻水で、これをいうのが精一杯でした。

3.どんな母だった

母は、ずっと働いていました。

仕事を辞めた後も、家の家事など、忙しく動いていました。

家では、ゆっくり座っていることはありませんでした。

亡くなる1、2年前までは、座っていてうたた寝するようなことも1度もみたことがありません。

身体の丈夫な母でした。

2年ぐらい前までは、近くのコンビニに歩いて行ったり、散歩をしたり、足腰は丈夫でした。

ただ、6、7年前頃からは、認知症が入ってきて、できないことが多くなってきました。

得意だった料理も、調味料の加減ができなくなってきたし、お湯を沸かせば沸かしっぱなしで、やかんを焦がしたりで、1人で置いておくのは心配な状況になってきました。

それでも、毎回同じ話をするにしても、そのときそのときの会話はできる状態で、誰と話しているかもわかっていますし、重度の認知症ではなかったので、その程度で済んで良かったなと思います。

母の身体の丈夫さは、私がその血を受け継いでいるようで、私も、身体は丈夫にできているようです。

この丈夫な身体が、母からの1番の、大切な貰い物です。

自分も、身体を大事に、大切にしたいと思います。

母には、「ありがとう」の言葉しかありません。

また、母は、ドライブが好きでした。

実家に帰った時、時々、ドライブに連れて行きました。

だいたい決まったコースなんですが、三崎公園→永崎海岸→中之作港→豊間→新舞子海岸通り→鹿島街道→実家、という経路です。

「ここはどこ?」ってよく聞きながら、車に乗っていました。

以前は、どこかを説明すれば、「あーそこかー」と思い出してくれていましたが、晩年ではその質問も出なくなってきました。

でも、ドライブの後、実家に着くと「お世話様でした」と、他人行儀な言葉でしたが、楽しかったようでした。

もっと車でどこかに連れて行きたかったですが、晩年のような状況になってしまうと、腰が重くなってしまい、思うようには連れて行ってあげられませんでした。

やはり、元気なうちに、色々と連れて行ってやらないといけませんでした。

4.後悔

後悔が無いとは言い切れません。

最後の日、午前中に母に会いにいった時、そのまま病院にずっといればよかった、とか、

母が元気な頃の動画をもっといっぱい撮っておけばよかった、とか、

丈夫に産んでくれてありがとうを言っておけばよかった、とか、

(カレー好きな母に)自分が作ったカレーを食べさせてあげたかった、とか、

やっぱり、生きている間に、もっと色々とやれたことがあったはずです。

そう考えるとキリがないのですが、多くの人がそんな感じなのかな、とも思います。


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